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小津安二郎の映画



落第はしたけれど
 ★★★
1930年(昭和5)4月11日公開/77分
モノクロスタンダード無声/松竹蒲田
原作 小津安二郎 脚色 伏見晃
 監督 小津安二郎
撮影・編集 茂原英雄 撮影補助 厚田雄春
 舞台設計 -
出演-斎藤達雄・田中絹代・月田一郎・笠智衆
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前作「朗かに歩め」から約一ヶ月後に公開された小津のサイレント映画。実際は一週間ほどで撮影されたらしい。

相変わらずの若き日の小津の西洋かぶれ映画。
大学生たちが肩を組んだり足並み揃えて歩くのは、当時人気だったハロルド・ロイド主演のアメリカ映画『ロイドの人気者』の影響らしい。アメリカ映画を臆面もなく真似してしまう当時の小津の映画への姿勢は、後年の日本文化の「侘び寂び」を重んじた、堅物頑固の小津からは考えられない。

当時の不況で就職難の社会状況を見据えて、目出度く卒業するより落第して大学に居残ったほうがマシと言うアイロニーが根底にある。この頃から小津は「小市民映画」の旗手と言われるようになったのだろうか。

一歳年下だった、26歳の笠智衆が出演している。

以下Wikiより転載
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『落第はしたけれど』は、1930年(昭和5年)4月11日公開の日本映画である。
松竹キネマ製作・配給。監督は小津安二郎。モノクロ、スタンダード、サイレント、77分。

大学を卒業しても就職口がないという深刻な社会状況を背景に、学生生活をエンジョイしている落第生を描いたコメディ作品で、1週間で撮影された。ハロルド・ロイドの『ロイドの人気者』の影響を始め、小津のアメリカ映画への傾倒ぶりも随所に見られる。小津作品で初めて笠智衆が目立つ役で出演している。初回興行は帝国館。現在、東京国立近代美術館フィルムセンターがフィルムを所蔵している。

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映画界入り
1923年1月、一家は小津と女学校に通う妹の登貴を残して上京し、東京市深川区和倉町に引っ越した。
3月に小津は登貴が女学校を卒業したのを機に、代用教員を辞めて2人で上京し、和倉町の家に合流して家族全員が顔を揃えた。小津は映画会社への就職を希望したが、映画批評家の佐藤忠男曰く「当時の映画は若者を堕落させる娯楽と考えられ、職業としては軽蔑されていた」ため父は反対した。しかし、母の異母弟の中條幸吉が松竹に土地を貸していたことから、その伝手で8月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社した。
小津は監督志望だったが、演出部に空きがなかったため、撮影部助手となった。入社直後の9月1日、小津は撮影所で関東大震災に遭遇した。和倉町の家は焼失したが、家族は全員無事だった。震災後に本家が湯浅屋を廃業したことで、父は亀住町の店跡を店舗兼住宅に新築し、新たに「小津地所部」の看板を出して、本家が所有する土地や貸家の管理を引き受けた。松竹本社と蒲田撮影所も震災で被害を受け、スタッフの多くは京都の下加茂撮影所に移転した。蒲田には島津保次郎監督組が居残り、小津も居残り組として碧川道夫の撮影助手を務めた。

1924年3月に蒲田撮影所が再開すると、小津は酒井宏の撮影助手として牛原虚彦監督組についた。小津は重いカメラを担ぐ仕事にはげみ、ロケーション中に暇があると牛原に矢継ぎ早に質問をした。12月、小津は東京青山の近衛歩兵第4連隊に一年志願兵として入営し、翌1925年11月に伍長で除隊した。再び撮影助手として働いた小津は、演出部に入れてもらえるよう兄弟子の斎藤寅次郎に頼み込み、1926年に時代劇班の大久保忠素監督のサード助監督となった。この頃に小津はチーフ助監督の斎藤、セカンド助監督の佐々木啓祐、生涯の親友となる清水宏、後に小津作品の編集担当となる撮影部の浜村義康の5人で、撮影所近くの家を借りて共同生活をした。小津は大久保のもとで脚本直しと絵コンテ書きを担当したが、大久保は助監督の意見に耳を傾けてくれたため、彼にたくさんのアイデアを提供することができた。また、大久保はよく撮影現場に来ないことがあり、その時は助監督が代わりに務めたため、小津にとっては大変な勉強になった。小津は後に、大久保のもとについたことが幸運だったと回想している。

1927年のある日、撮影を終えて腹をすかした小津は、満員の社員食堂でカレーライスを注文したが、給仕が順番を飛ばして後から来た牛原虚彦のところにカレーを運んだため、これに激昂して給仕に殴りかかろうとした。この騒動は撮影所内に知れ渡り、小津は撮影所長の城戸四郎に呼び出されたが、それが契機で脚本を提出するよう命じられた。城戸は「監督になるには脚本が書けなければならない」と主張していたため、これは事実上の監督昇進の試験だった。小津は早速自作の時代劇『瓦版かちかち山』の脚本を提出し、作品は城戸に気に入られたが、内容が渋いため保留となった。
8月、小津は「監督ヲ命ズ 但シ時代劇部」の辞令により監督昇進を果たし、初監督作品の時代劇『懺悔の刃』の撮影を始めた。ところが撮影途中に予備役の演習召集を受けたため、撮り残したファーストシーンの撮影を斎藤に託し、9月25日に三重県津市の歩兵第33連隊第7中隊に入隊した。10月に『懺悔の刃』が公開され、除隊した小津も映画館で鑑賞したが、後に「自分の作品のような気がしなかった」と述べている。




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