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アルフレッド・ヒッチコックの映画



メリー
(Mary)
 
1931年(昭和6)公開/79分
モノクロスタンダード・トーキー/ドイツ映画
 
製作 クレメンス・デーン
ヘレン・シンプソン
脚本 -
 監督 アルフレッド・ヒッチコック
撮影 - 編集 -
 美術 -
出演-アルフレート・アーベル、オルガ・チェホーワ、ポール・グレッツ
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1930年に公開されたアルフレッド・ヒッチコック監督「殺人!」を、ドイツに輸出するために同じセットで撮ったリメイク作品。

劇団の女優が殺害されたことで逮捕された若き女優の、無実の罪を晴らすまでを描いている。

初っ端の事件が起こるシーンはヒッチコックらしさがうかがえる。
そして裁判となり、陪審員の評決シーンが緊迫感がある。1959年のシドニー・ルメット「12人の怒れる男」の元になったのでは?

陪審員の一人だった男優が、無実を信じて調査を始めるのだが、原作は人気の高い戯曲らしく構成がしっかりしている。

ラストのサーカスのシーン。空中ブランコに乗る犯人が、次第に追い詰められていくカットが素晴らしい。
多分クレーンとブランコを固定して撮影して、観客もブランコに乗った錯覚に陥る。このカットだけで、ヒッチコックの凄さがわかる。

以下Wikiより転載
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戦間期のキャリア:1919年 - 1939年

フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー

ヒッチコックがまだヘンリー電信ケーブル社にいた頃、アメリカの映画会社フェイマス・プレイヤーズ=ラスキー(パラマウント・ピクチャーズの前身)はロンドン北部のイズリントンにスタジオを開設し、その第1作にマリー・コレリの小説が原作の『悪魔の嘆き(英語版)』を製作予定であると発表した。ヒッチコックはこのニュースを映画業界紙で知ると興味をそそられ、会社が募集していたサイレント映画の字幕デザイナーの仕事に応募し、原作小説に目を通したあと、会社の広告部門にいた同僚の助けを借りながらその字幕デザインのサンプルを何枚か描いた。しかし、プロデューサーにサンプルを提出した頃には『悪魔の嘆き』の製作は取りやめとなり、代わりに別の作品『最後の審判』(1920年)と『青春の呼び声』(1921年)の製作が決定していた。ヒッチコックは雇ってもらえるかもしれないという熱意から、この2本の字幕デザインを2日以内に作成し、それがプロデューサーに気に入られて採用された。

ヒッチコックは当初、パートタイムでフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーに雇われ、ヘンリー電信ケーブル社で働きながら字幕デザインを作成し、仕事の出来高に応じて報酬を受け取った。1921年4月にはフルタイムの従業員となり、それに伴いヘンリー電信ケーブル社を辞職した。それから約2年間、ヒッチコックは同社の11本の作品で字幕デザインを作成し、時には字幕をうまく使って内容が良くない映画のスクリプトを手直しして、映画そのものの内容を完全に変えたりもした。また、スタジオが人手不足だったことから、構図やセットの絵コンテを描くなど、担当以外の仕事をすることもあった。ヒッチコックはアメリカ人の従業員が多数を占めるこのスタジオで、自分の仕事をこなしながらアメリカ流の映画作りを学んだ。

しかし、1922年夏にフェイマス・プレイヤーズ=ラスキーはイズリントンのスタジオでの映画製作を停止し、空いたスタジオは貸しスタジオとなった。ヒッチコックは低賃金で長時間労働をしていたため解雇を逃れ、他の数人のスタッフとスタジオに留まった。この頃、ヒッチコックはこのスタジオで自主製作による初監督作品『第十三番』(1922年)の撮影を始めた。この作品はロンドンの低層階級を描いたコメディで、主演のクレア・グリートが資金を工面したにもかかわらず製作費は底をつき、未完成のまま終わった。1923年初頭には俳優のシーモア・ヒックスがイズリントンのスタジオを借りて『いつも奥さんに話しなさい』(1923年)を製作兼主演したが、当初の監督のヒュー・クロイスがヒックスとの意見の対立で降板し、ヒックスが自ら監督を務めることになったため、ヒッチコックがその演出を手伝うことになり、2人で残りのシーンを撮影した。

ゲインズボロ・ピクチャーズ

1923年夏、映画プロデューサーのマイケル・バルコンの独立プロダクションがイズリントンのスタジオで映画製作を始めると、ヒッチコックはそこに雇われ、グレアム・カッツ監督の『女対女』『白い影』(1923年)で助監督を務めたが、それ以外にも脚本やセットデザインも担当し、バルコンから有能なスタッフと評価された。1924年初めにバルコンがイズリントンのスタジオを買収してゲインズボロ・ピクチャーズを設立すると、ヒッチコックは同社で引き続きカッツの『街の恋人形』(1924年)、『与太者』『淑女の転落』(1925年)で助監督、脚本、セットデザインを担当した。『与太者』はドイツの大手映画会社ウーファと共同製作し、ポツダムのバーベルスベルク・スタジオで撮影されたが、ヒッチコックはドイツ滞在中にF・W・ムルナウ監督の『最後の人(ド』(1924年)の撮影を見学し、その遠近法を強調したセットの作り方に感銘を受け、早速撮影中の『与太者』のセットデザインに採り入れた。

1925年、ゲインズボロ・ピクチャーズはミュンヘンに拠点があるエメルカ社と共同製作で映画を作ることになり、バルコンはヒッチコックをその監督に抜擢した。助監督として充分な経験を積んでいたヒッチコックは、自分から映画監督になりたいと意思表明をしてもおかしくなかったが、当時は脚本やセットデザインの仕事に満足し、監督になることは全く考えていなかったという。同年夏、ヒッチコックはミュンヘンに派遣され、初監督作品『快楽の園』を撮影した。この作品は2組の男女の交錯した関係を描くメロドラマで、アメリカの人気女優のヴァージニア・ヴァリが主演した。ロケはイタリアで行われたが、通関手続きではフィルムストックが申告漏れのため税関に没収され、ジェノヴァでは現金が盗まれ、ほかにも予定外の出費が重なるなどトラブルが続き、そのせいで製作費が不足し、俳優やスタッフにお金を借りることになった。同年夏の終わりに撮影は終了し、試写を見たバルコンはその出来に満足した。

ヒッチコックはバルコンから、もう1本ドイツで英独合作を撮影する話を持ちかけられ、1925年秋にミュンヘンのスタジオとチロル地方のロケで監督第2作『山鷲』を撮影した。この作品は男に追い回されて山に逃げ込んだ女教師が主人公のメロドラマで、アメリカの人気女優ニタ・ナルディが主演したが、ヒッチコックはこの作品を「最低の映画」と呼んでいる。翌1926年1月にヒッチコックはイギリスに戻り、その2か月後には『快楽の園』の公開試写が行われた。『デイリー・エクスプレス』紙はこの作品を「傑出した映画」と呼び、ヒッチコックのことを「巨匠の頭脳を持った新人」と評した。しかし、配給元のW&F映画配給会社は売り物にならないとして『快楽の園』と『山鷲』の公開を拒否し、監督3作目の『下宿人』の業界向け試写会が成功したあとの1927年にようやくイギリスで正式配給された。その後、『山鷲』のフィルムはすべて紛失し、作品について残されているものはわずか6枚の写真しかない。

1926年に撮影した『下宿人』は、ヒッチコックにとって初のサスペンス映画である。この作品は切り裂きジャックを下敷きにしたベロック・ローンズの同名小説が原作で、無実の若い下宿人(アイヴァー・ノヴェロ)が連続殺人犯の疑いをかけられるという物語である。ヒッチコックはこの作品でさまざまな純粋な視覚的工夫を凝らしており、例えば、女将の上の部屋にいる下宿人の足音の効果を出すために、ガラス板の天井の上を歩く下宿人を真下から撮影した。この作品には金髪女性や手錠、間違えられた男など、後の作品で繰り返し用いられるテーマやモチーフが登場し、「ヒッチコック・タッチ」と呼ばれる独自の作風を最初に示した作品となった。後年にヒッチコックは、この作品を「正真正銘のヒッチコック映画と言える最初の代物」と呼んでいる。しかし、配給会社は公開を拒否したため、ヒッチコックは若い知識人のアイヴァー・モンタギューの助けを借りて作品に修正を加え、1926年9月に業界向け試写会を行うと、『バイオスコープ』誌に「イギリス映画史上の最大傑作」と呼ばれるなど好評を集めた。翌1927年1月に公開されると商業的にも成功を収めた。

1926年12月2日、ヒッチコックはそれまでの3本の監督作品で助監督や記録係を担当したアルマ・レヴィルと、ロンドンのナイツブリッジにあるローマ・カトリックのブロンプトン・オラトリーで結婚し、ロンドンのクロムウェル・ロード153番地にある賃貸アパートの最上階で生活を始めた。夫婦はパリ、コモ湖、サンモリッツで新婚旅行をしたが、それ以来2人は事情の許すかぎり結婚記念日をサンモリッツで過ごすようにした。イギリスに戻ったあと、ヒッチコックはバルコンとの間に残る2本の契約を消化するため、まず1927年初めにアイヴァー・ノヴェロがコンスタンス・コリアと共同執筆した戯曲が原作の『ダウンヒル』を監督した。この作品は濡れ衣を着せられた学生(ノヴェロ)が主人公のメロドラマで、同年5月の『山鷲』の公開と同じ週に上映され、『キネマトグラフ・ウィークリー』紙に「(映像表現に優れた)監督の個人的な成功」と評された。その次にノエル・カワードの戯曲が原作のメロドラマ『ふしだらな女』(1927年8月初上映、1928年3月公開)を監督したが、不評で興行的にも失敗した。

ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ

1927年6月、ヒッチコックは前月に撮影を終えた『ふしだらの女』を最後にゲインズボロ・ピクチャーズを辞め、新しく設立されたブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズ(BIP)と契約し、その拠点のエルストリー・スタジオに移った。BIPではゲインズボロと比べてより良い条件と高い独立性が保証された。年俸はゲインズボロ時代の約3倍となる1万3000ポンドとなり、当時のイギリス映画界で最も高給取りの監督となった。スタジオから創造的な自由を与えられたヒッチコックは、同社第1作を自身初のオリジナル脚本で作ることにした。その作品『リング』は同じ女性に恋をした2人のボクサーを描く三角関係ものの恋愛ドラマで、同年夏に撮影し、10月に公開されると肯定的な批評を集めた。

1927年秋にはイーデン・フィルポッツの戯曲の映画化で、妻を亡くした農場主の花嫁探しを描くコメディ映画『農夫の妻』(1928年3月公開)を監督した。撮影はイギリス南部のデヴォンやサリーの田舎で行われたが、その地の風景やロンドンの喧騒から離れた静けさに魅力を感じたヒッチコックは、1928年にサリーのギルフォードから4マイルに位置する村シャムリー・グリーンの近くにあるチューダー様式の別荘「ウィンターズ・グレース」を2500ポンドで購入し、そこで家族と週末を過ごすようになった。この頃にヒッチコックはアメリカ風のコメディ映画『シャンパーニュ』を撮影していたが、同年夏に公開されると批評家に「一晩中、雨にさらされたシャンペン」と言われるなどして酷評され、後年にヒッチコック自身も「わたしの作品のなかで最低のもの」と述べている。

1928年7月7日、ヒッチコック夫妻の一人娘であるパトリシア・アルマ・ヒッチコックが生まれた。それから数週間後にはホール・ケインの小説を映画化したメロドラマ『マンクスマン』(1929年1月公開)を撮影したが、これはヒッチコックの最後のサイレント映画となり、翌1929年初めに撮影した『恐喝』からトーキーの時代が始まった。この作品はチャールズ・ベネットの戯曲の映画化で、自分を犯そうとした男性をナイフで殺害し、それが原因で見知らぬ男に恐喝される女性(アニー・オンドラ)と、彼女を守る婚約者の刑事が主人公のサスペンスである。最初はサイレント版で撮影していたが、その途中で会社からトーキー化の話が生じたため、ヒッチコックはいくつかの部分を撮り直してトーキーにした。ヒッチコックは音という新しい表現手段の可能性を追求し、例えば、主人公の女性が殺人を犯した翌日の朝食のシーンでは、日常会話に「ナイフ」という言葉を繰り返し強調して、女性の罪悪感や恐怖心を際立たせた。1929年7月に作品が公開されると、批評家から熱狂的な評価を受け、商業的にも『リング』以来の成功を収めた。

1930年初め、ヒッチコックはイギリス初のミュージカル・コメディ映画『エルストリー・コーリング』の数シーンだけを監督し、その次にショーン・オケーシーの有名な戯曲が原作の『ジュノーと孔雀』を撮影した。ヒッチコックはこれを会話が多い非映画的な作品と見なし、それ故に気乗りのしないまま仕事に取り組んだが、同年に公開されると批評家に好意的な評価を受けた。この頃、多くのメディアからインタビューを受けたヒッチコックは、自分の名前を広く宣伝する重要性を理解し、ヒッチコックの広報活動を担う小さな会社「ヒッチコック・ベイカー・プロダクションズ」を設立した。5月にはヒッチコック作品では珍しい犯人さがしを描く謎解き映画『殺人!』(1930年公開)を監督したが、この作品はまだアフレコ技術が確立していない中でヨーロッパに売り込むため、同時に英語版とドイツ語版で撮影された。1930年末から1931年初頭にはジョン・ゴールズワージーの戯曲が原作で、成金と貴族の地主の土地をめぐる対立を描く『スキン・ゲーム』を撮影し、2月に公開されると好評を博した。

1931年、ヒッチコック一家はカリブ海やアフリカなどを回る世界一周旅行をした。ヒッチコックの次の作品『リッチ・アンド・ストレンジ』は、その時の経験やアルマとの新婚旅行に触発された作品であり、スポトーは「公然たる自伝ともいえる作品」と述べている。それは大金を得て世界一周旅行に出かけた夫婦を描くコメディドラマで、それまでに作ったトーキー作品への反動としてセリフのあるシーンを全体の5分の1しか設けなかった。同年8月に撮影を終え、12月に公開されたが興行的に失敗し、この作品を気に入っていたヒッチコックは失望した。この頃のヒッチコックとBIPの関係は悪化したが、BIPの経営状態も悪化し、ヒッチコックの次の作品でスリラーの舞台劇をコメディ風に映画化した『第十七番』(1932年7月公開)は低予算で作られた。この作品も失敗作となり、ヒッチコックは「批評家たちの注意すらひかなかった」と述べている。その次もまた低予算で『キャンバー卿の夫人たち』(1932年)の監督を命じられたが、作品に興味を示さなかったヒッチコックはプロデューサーだけを担当し、監督はベン・W・レヴィに任せた。そしてこの仕事を最後にBIPとの契約を終えた。




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